30/05/2026
1942年、日中戦争の最中に撮影された一枚の写真がある。
そこには、日本兵たちの背中に「南無妙法蓮華経」と大きく書かれていた。
初めてこの写真を見た人の多くは、強い衝撃を受ける。
『妙法蓮華経』、いわゆる『法華経』は、本来、仏教における最も重要な大乗経典の一つであり、「南無妙法蓮華経」は日蓮仏法における根本の題目だからだ。
さらに興味深いのは、当時、多くの日本兵が、経文や題目を書いた衣服を「守り」として身につけていたことである。
母親や妻が出征する家族の無事を願い、自ら縫ったものもあった。宗教団体から配られたものもあったという。
「これを身につければ、弾に当たらず生きて帰れる」
そう信じる兵士も少なくなかった。
それは、戦争という極限状態の中で、人々が抱えていた「死への恐怖」を物語っている。
しかし、だからこそ、この歴史はより深く考えさせられる。
彼らは仏の加護を祈りながら、その一方で、他国の土地で戦争をしていたのである。
そして、さらに見逃してはならないのは、当時の日本の軍国主義が、宗教を戦争遂行のために利用していたという事実である。
1931年の満州事変以降、日本の一部仏教界は国家政策に協力し、「聖戦」という言葉を用いて戦争を正当化していった。
さらには、「保教不保国」という思想まで語られるようになった。
つまり、「国家よりも宗教を守るべきだ」という論理であり、結果として中国側の抗戦意識を弱める役割さえ果たしていたとも言われている。
また、日本仏教界は多くの「従軍僧」を戦地へ送り出した。
彼らは単に読経をするだけではなかった。
日本の研究者・山内小夜子氏の研究によれば、従軍僧たちは兵士への布教、士気高揚、負傷兵の慰問、遺骨の整理、占領地住民への対応、翻訳や連絡業務などを担い、中には戦闘に関与した者もいたという。
つまり、当時の宗教は、単なる信仰ではなく、戦争体制の一部として機能していたのである。
その背景には、『立正安国論』の政治的解釈も存在していた。
『立正安国論』は、本来、日蓮が鎌倉時代に執権へ提出した諫言書であり、「社会が正法から離れれば、国家は乱れ、災難が起こる」という思想を説いたものであった。
本来は宗教的・倫理的な社会論であり、侵略戦争を肯定するものではない。
しかし軍国主義の時代になると、一部の国家主義者たちはこれを「日本は正法の国である」「日本にはアジアを導く使命がある」と解釈し始めた。
その結果、「護国」は次第に「拡張」へと変質し、宗教もまた国家に利用されていった。
だが、歴史の中で最も考えさせられるのは、同じ『立正安国論』が、戦後には全く異なる方向へ受け継がれていったことである。
創価学会は、「立正安国」を平和思想として捉え直した。
創価学会にとっての「立正安国」とは、武力によって他者を支配することではない。
人間一人ひとりの生命を変革し、生命尊厳を基盤として、平和な社会を築いていくことである。
第二代会長・戸田城聖は、戦後間もない時代に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器を「人類の生存を脅かす絶対悪」として厳しく批判した。
また第三代会長・池田大作も、長年にわたり、平和教育、核廃絶、宗教間対話、日中友好、国連を通じた平和提言などを続けてきた。
つまり、同じ「立正安国」という言葉でも、それを戦争の論理に使うのか、平和の理念に使うのかで、全く異なる未来が生まれるのである。
宗教そのものが危険なのではない。
問題なのは、人間が宗教をどう利用するかである。
宗教が国家主義や排外思想と結びつけば、戦争を正当化する力にもなり得る。
しかし、生命尊厳という原点に立ち返るならば、それは平和を支える思想にもなり得る。
仏教の根本戒の一つは、「不殺生」である。
だからこそ、あの時代を振り返る時、本当に考えるべきなのは、「南無妙法蓮華経」という言葉そのものではない。
人間が、祈りと戦争を、どのように同時に抱えてしまったのかということである。
そして戦後、同じ仏法の中から、「平和」へ向かおうとした人々がいたこともまた、歴史の一部なのである。