10/06/2026
全くもって我が意を得たり!です!! #解決策提案
だから私は学童クラブ凛童舎を脱サラして始めました。
今は千葉市の補助金で運営しています。
一人っ子を在宅ママがすっと見つめて心配を募らせあれこれ手出しをし、過干渉になって、子を弱体化させるぐらいなら、子どもを良い学童クラブで疑似兄弟と出合わせ、みくびられていた「自力」を思いっきり発揮する。母は働きに出て社会に触れ、客観的視点を得る(モンペ抑止)方が良いと。
これを「地域の縁つなぎ拠点」をするべく、各曜日に2人ずつボランティアに入ってもらうようにし、その供給源として、3時までの空き時間をコミニティカフェRindowとして地域に開放していました。(補助金をもとめて千葉市に移転する前の船橋市でのこと)
以前、ホンマでっかTVで「高齢者は、週2回までなら子どもの相手をした方が長生きする。しかし、3日以上だったら逆にストレスになり寿命が縮む」というどこかの大学論文を紹介していました。
かつてのシニア女性ボランティアも「自治体が、やれカラオケだ、ゲートボールだ、絵手紙講座だ、と世話してくれるが、してもらうばかりだと生きがいがない。週に1回子どもと遊んでリフレッシュして、ボランティアで『ありがとう』と言われ、しかも1500円の謝金ももらえて週1回友達とちょっと豪華なランチができる。3重にありがたい」と言っていました。
学童クラブは今や必須施設で、自治体、都道府県、国から1/3ずつ補助金が出る施設。これを地域の絆再生インフラとして活用(多重活用)するというのが凛童舎の思想です。
ただ残念ながら「良い学童クラブ」がない。国は、面倒だから学校内で放課後まで子ども達を「保管」せよと指導している。ゆえに自治体は「安心安全(ポカをやらないしつぶれもしない点で信頼できる)な大手営利事業者(シダックスやトライ、学研などなど)にこれを委託(や指定管理)するのが全国的潮流になっている。「こども放課後収容所」の様相が広がり続けています。
500人の小学校だと150人が学童クラブに入る時代です。
大勢すぎて子ども自身が仕切れない。一方、運営は営利企業だから、子ども達を自由にさせたがらない。「統一行動をとらせる方が効率が良い」と考える。(ゆえに凛童舎は児童定員は25名に抑えています。そういう規模の学童クラブが各町内の空き家を利用して存在しているのが理想と考えます。150人なら1小学校に25人×6か所)
昔、地域の子ども集団(+遠巻きに見守る地域の大人たち)での自由によって身に着いた非認知能力(自分で考え行動の結果に責任を取る姿勢やリーダーシップ)が身につかない。
「この状況を変えたい」というのが私のライフワークです。
現に、コミニティカフェでの出会いから、子ども食堂が始まったり、編み物の会などが発生した。育児孤独のママが乳児を連れてコミニティカフェやってきて、そこで高齢女性に『かわいいわね?』と話しかけられ、編み物の会に参加するようになって元気になった事例もありました。
「少子高齢化」ということは「孫の居ない高齢者の増加」ということでもある。ゆえに「乳幼児の可愛さ」や「子どもの(日々の変化:成長という)華やぎ」は、社会の希少財産であり、みんなでシェアしようという考え方。そもそも私の根底の思想は「余っているものを足らないところへ」&「リソースの多重活用」ですから。
学童クラブ職員の余っている労働力(食うには足らない労働時間)を学校へ…というのもそのひとつです。それで両者ハッピーにならないかと。
この仕組みが広がって欲しい。 #広報にご協力いただけませんか?
このままでは、放課後まで学校に閉じ込められ、運営者の意図通りに動く子ども時代を過ごした子どもたちがから頼りになる人材が生まれる気がしない。
自分の街を知る機会も奪われるので、近未来社会維持に必須とされる地域の「共助」の意欲も生まれないと思います。
【少子化の本当の原因は、母親の愛に社会がタダ乗りしてきたことなのかもしれない】
子どもを3人育てる。
これが、どれほど大変なことなのか。
どれほど尊いことなのか。
そして、どれほど巨大な「社会インフラ」なのか。
僕たちは、あまりにも軽く考えすぎてきたのかもしれない。
朝6時に起きる。
子どもに朝ごはんを食べさせる。
弁当をつくる。
洗い物をする。
洗濯する。
掃除する。
学校に送り出す。
夕飯のメニューを考える。
買い物に行く。
行政手続きをする。
PTAに出る。
地域の付き合いをする。
子どもが帰ってきたら、話を聞く。
遊ばせる。
習い事に送る。
病気になれば病院に連れて行く。
宿題を見る。
ご飯をつくる。
お風呂に入れる。
歯磨きをさせる。
寝かしつける。
気づけば、夜22時。
しかも、これが毎日続く。
土日もない。
祝日もない。
有給もない。
退勤もない。
夜泣きがあれば、深夜勤務まである。
これを、もし全部外注したらいくらになるのか。
うちの会社で家政婦紹介もやっているのだけど、家事も子育ても同時にできる人材は、手取り時給2,500円を超える。
朝6時から夜22時まで。
休憩3時間を引いて、実働13時間。
時給2,500円 × 13時間 = 1日32,500円。
これを350日続けると、年収1,137万5,000円。
これは、プロとしてしっかりこなす前提の金額ではあるが、一方で夜泣き対応、精神的ケア、家族全体の空気づくり、夫の機嫌管理、親戚づきあい、子どもの将来への不安まで含めたら、もっと高い。
つまり、しっかりした専業主婦の仕事は、少なく見積もっても、
年収1,200万円相当
なのだ。
本当は、値段なんてつけられない。
でも、あえてお金に換算してみると、見えてくるものがある。
それは、
子育ては「愛」だけで片づけていい労働量ではない
ということだ。
さらに言えば、妊娠と出産もある。
海外、たとえばアメリカの代理母出産では、産む人本人への報酬が一人あたりおよそ1,000万円前後になることもある。
もちろん、出産をお金に換算することには抵抗がある。
命の誕生は、取引ではない。
でも、女性の身体にかかる負担を社会が理解するための指標として、あえて見てみる必要があると思う。
妊娠。
つわり。
体型の変化。
眠れない夜。
出産の痛み。
命の危険。
産後のダメージ。
授乳。
ホルモンバランスの変化。
社会復帰の難しさ。
これを女性だけが引き受けている。
仮に、妊娠・出産の価値を1人1,000万円。
子育て・家事の価値を年1,200万円。
それを10年分と考える。
子ども3人なら、
1,000万円 × 3人
+
1,200万円 × 10年
合計、
1億5,000万円相当
である。
子ども3人を産み育てるということは、それくらい巨大なプロジェクトなのだ。
ここまでは、よくある「世の中の男性よ、母親に感謝しよう」という話に見えるかもしれない。
もちろん、それは大前提だ。
母さん、ありがとう。
妻たち、本当にありがとう。
世の中のお母さんたち、本当にすごい。
でも、僕はここで終わらせたくない。
感謝だけでは、社会は変わらないからだ。
「ありがとう」と言いながら皿を洗わない男は、まあまあ危険である。
問題の本質は、もっと深い。
少子化の本当の原因は、家事育児という年収1,200万円級の仕事を、家庭の中に押し込みすぎたことだ。
もっと言えば、
母親の愛に、社会がタダ乗りしてきたことだ。
子どもを育てるには、人手がいる。
ご飯をつくる人。
送迎する人。
見守る人。
遊ばせる人。
叱る人。
話を聞く人。
病院に連れて行く人。
地域につなぐ人。
親が倒れたときに助ける人。
昔は、それを家族や地域で分担していた。
じいちゃんがいた。
ばあちゃんがいた。
近所のおばちゃんがいた。
親戚がいた。
兄弟姉妹がいた。
地域の大人がいた。
子どもは、複数の大人の目の中で育っていた。
でも今はどうか。
核家族。
共働き。
転勤。
都市生活。
地域のつながりの希薄化。
祖父母とは遠距離。
近所には頼れない。
シッターは高い。
家政婦も高い。
保育園も限界がある。
行政サービスも足りない。
結果、家事育児は、母親か父親、とくに母親に集中する。
これは、無理だ。
かなり無理だ。
「子どもを3人産んでください」
「女性も働いてください」
「家事もしてください」
「地域活動もしてください」
「教育にも力を入れてください」
「老後資金も貯めてください」
「自己実現もしてください」
いや、無理でしょ。
要求が高すぎる。
少子化とは、若者の根性不足ではない。
女性のわがままでもない。
男性の収入不足だけでもない。
本質は、
子育ての負担構造が、現代社会に合っていない
ということだ。
では、どうすればいいのか。
僕は、少子化対策の本丸は、
「家事育児1,200万円分」を、誰がどう分担するか
だと思っている。
お金を配るのも大事。
児童手当も大事。
保育料無償化も大事。
給食費支援も大事。
住宅支援も大事。
でも、それだけでは足りない。
子育てに必要なのは、お金だけではない。
時間がいる。
手がいる。
目がいる。
心の余裕がいる。
送迎してくれる人がいる。
ご飯をつくってくれる人がいる。
ちょっと見てくれる人がいる。
いざという時に頼れる人がいる。
つまり、少子化対策とは、
ケアの供給量を増やす政策
でなければならない。
そこで、僕が本気で考えたいのが、
じいちゃん・ばあちゃんパワーの社会実装
である。
日本には、元気な高齢者がたくさんいる。
60歳で定年しても、まだまだ元気な人は多い。
70代でも、めちゃくちゃ元気な人がいる。
80歳でも、子どもと関われる人はいる。
特に、ばあちゃんは強い。
子育てと家事の経験値が違う。
ちょっとした熱。
ご飯の食べさせ方。
子どもの機嫌。
洗濯物の回し方。
冷蔵庫の残り物で何を作るか。
親が限界のときの一言。
これは、プロの技術である。
じいちゃんも強い。
子どもを外に連れ出す。
畑を教える。
釣りを教える。
工作を教える。
地域の歴史を教える。
祭りにつなぐ。
社会の大人に会わせる。
これも、めちゃくちゃ大事な教育である。
この力を眠らせておくのは、本当にもったいない。
もちろん、じいちゃんばあちゃんを無料労働力として使い倒せという話ではない。
それは違う。
必要なのは、善意ではなく、仕組みである。
たとえば、
地域ばあちゃん制度。
地域じいちゃん制度。
孫育て報酬制度。
送迎サポート制度。
夕飯づくり支援。
放課後の見守り。
子育て家庭と高齢者をつなぐ地域拠点。
空き家や公民館を使った、子どもと高齢者の居場所。
そして、ちゃんと報酬を払う。
「ありがとう」だけで終わらせない。
「地域の仕事」にする。
高齢者にとっては、年金不安の補完になる。
孤独の解消になる。
生きがいになる。
経験を次世代に渡す場になる。
子育て世代にとっては、手が増える。
時間が増える。
安心が増える。
子どもをもう1人持つ現実味が生まれる。
子どもにとっては、親以外の大人と出会える。
世界が広がる。
地域に根が生える。
人生の師匠が増える。
これ、めちゃくちゃ強い。
少子化対策というと、すぐに「若者にお金を配ろう」という話になる。
もちろん、それも必要だ。
でも本質は、
子どもを産むかどうかではなく、子どもを育て切れる社会かどうか
である。
子育てが、夫婦だけの孤独な戦いなら、2人目、3人目は厳しい。
でも、
近くにばあちゃんがいる。
近くにじいちゃんがいる。
地域に頼れる大人がいる。
ちょっと預けられる場所がある。
困ったら助けてくれる人がいる。
送迎を分担できる。
ご飯を一緒につくれる。
子どもを地域で見守れる。
そうなれば、子どもを持つことは、リスクではなく、希望になる。
東京で夫婦共働き、年収2,000万円。
一見すごい。
でも、手取りは大きく減る。
家賃は高い。
外注費も高い。
時間はない。
祖父母も遠い。
地域のつながりも薄い。
一方で、地方で手取り600万円でも、近くに祖父母がいて、地域の支えがあって、家賃が安くて、自然があって、子どもを見守る人がいるなら、実質的な豊かさはまったく違う。
これからの時代、本当に大事なのは、
可処分所得だけではない。
可処分時間
可処分関係性
可処分安心感
である。
頼れる人が近くにいることは、資産だ。
祖父母の近くに住むこと。
三世代が近居すること。
地域で子どもを育てること。
これは古い価値観ではない。
むしろ、これからの最先端の社会インフラになる。
少子化対策とは、若者に「産め」と言うことではない。
そんなことを言っても、誰も産まない。
というか、言われたくない。
本当にやるべきことは、
「これなら、もう1人育てられるかもしれない」と思える社会をつくること
だ。
そのためには、母親に感謝するだけでは足りない。
父親が家事育児を担うこと。
祖父母が無理なく関われること。
地域の人が子どもに関われること。
行政がその仕組みを支えること。
企業が子育てを前提にした働き方を認めること。
家事育児を、家庭の中に閉じ込めないこと。
子どもを、母親ひとりに背負わせないこと。
そして、地域全体で、
「この子たちは、私たちの未来だ」
と思える社会を取り戻すこと。
少子化の本質は、出生率の数字ではない。
子どもを一緒に育てる共同体を失ったことだ。
だから、解決策もシンプルだ。
子どもを一緒に育てる共同体を、もう一度つくること。
資本主義による過度な効率化で、壊れかけた共同体を、テクノロジーと滑らかなお金で、復活させ、アップデートしていく。
母親の愛に、社会がタダ乗りする時代を終わらせよう。
子育てを、孤独な家庭内労働から、地域の公共事業へ。
じいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん、母ちゃん、地域の大人たち。
私たちはもう一度、みんなで子どもを育てる社会をつくれるはずだ。
AIやテクノロジーも、そのために実装させていくべきだ。
それができたとき、少子化対策は、単なる人口政策ではなくなる。
それは、
日本社会をもう一度、あたたかく編み直すプロジェクト
になるはずだ。