佐竹氏研究会

佐竹氏研究会 戦国時代、常陸国に勢力を誇った佐竹氏の歴史をふり返る。

04/02/2021

戦いのもう1つの側面
戦国時代は天候不順で作物が実らず時々飢饉に見舞われた。また人災と言える戦いで略奪が行われたため食糧を奪われ飢餓にさらされた。このため戦国大名は領民の生活を維持するため、たびたび戦という名のもとに他国に遠征した。この遠征の過程で足軽たちは略奪を繰り返し食糧とした。戦国時代の主食は米(秋作)と麦(春作)で、作物の実る時期に合わせて軍隊を動かし、田畑の作物を刈り取ったり、収穫が終わった所をねらって略奪して自分たちの食料としていた。
このような行動を毎年のように行ったのが上杉謙信だった。上杉謙信は永禄3年から10年にかけて、8回ほど関東への侵攻を繰り返した。いずれの遠征も雪に覆われる前の秋に越後を出発し、三国峠を超えて上野に入り、冬に関東へ侵攻した。永禄4年には小田原城に到達した。しかし、いずれの遠征も地元で米づくりの始まる春には越後に戻った。
このように敵の侵攻を許し、農作物や下人などを略奪された国の大将は、今度は自国の軍隊を連れて他国に遠征し、同じような略奪をして足軽たちの飢餓を救う手だてをした。よく言われるのが、交互に遠征を繰り返した上杉軍と甲州武田軍の戦いと言われている。

04/02/2021

戦国時代の軍隊編成
家臣1人当たりの人数編成は、家臣の持ち高によっておよそ決められている。騎馬1人につき徒(かち)の奉公人が数人就く。この数人には城主直属の兵が2~3人就く(この直属の兵は北条氏では寄子衆と呼ばれ、普段は城の警備や兵糧の管理などを行い、戦の時に大将や主な家臣のグループに配属される)。残りの奉公人は普段は領地で農作業を行い、戦となると弓矢や槍を持って、主人の家臣について戦場に行く。そのほかに足軽と呼ばれる者が数人加わる。この足軽は家臣の領地内で農作業を行っている家の住民(主に若者)で、中間、小者、荒子などと呼ばれていた。
このグループが数十組集まって軍隊をつくる。そのほかに馬で兵糧を運ぶグループが加わる。
出発時から運ばれる兵糧は大将や家臣、一部の奉公人の分で、その他の奉公人や足軽たちの兵糧は持参しない、そのため足軽は戦や遠征の途中で、自分の食糧を自分で調達する必要があった。このためゆく先々で常に食糧の略奪行為を行った。

(佐竹義重時代からの家臣団一覧)佐竹氏の中心となる家臣団は、まず佐竹氏の一族・縁者。そして古くから佐竹氏とともに戦いに従軍してきた家臣。これには小野崎氏やその一族。また太田周辺の豪族で普段は農作業をしていて、戦時になると武器を持って戦場に加...
10/01/2021

(佐竹義重時代からの家臣団一覧)
佐竹氏の中心となる家臣団は、まず佐竹氏の一族・縁者。そして古くから佐竹氏とともに戦いに従軍してきた家臣。これには小野崎氏やその一族。また太田周辺の豪族で普段は農作業をしていて、戦時になると武器を持って戦場に加わる衆(幕下衆)。戦いや遠征の過程で降伏したり、佐竹氏に帰順した武士(近国幕下衆)。岩城氏、府中氏など近隣国の国衆で構成されている。
戦いではこれらの家臣団のほかに、足軽や荒し子と呼ばれる軽装の若者衆。兵糧を運ぶ馬を連れた農民が加わる。
(近国幕下衆の「大森美濃」が筆者の先祖)

(義宣による常陸国統治)天正18年(1590年)秀吉による裁定で佐竹氏に常陸国統治の朱印状が出されると、領国の中心地となる水戸へ城を移すことを決め、すでに居城としていた江戸氏に城の明け渡しを求めた。太田城を出た佐竹軍は水戸の手前額田でかねて...
02/01/2021

(義宣による常陸国統治)
天正18年(1590年)秀吉による裁定で佐竹氏に常陸国統治の朱印状が出されると、領国の中心地となる水戸へ城を移すことを決め、すでに居城としていた江戸氏に城の明け渡しを求めた。太田城を出た佐竹軍は水戸の手前額田でかねてから伊達氏と密通のうわさのあった額田城の小野崎昭道を攻め、城から追放した。江戸氏も大きな抵抗もせず城を明け渡し、結城氏のもとへ逃亡した。その後も府中城の大掾氏も配下にして、水戸での築城と街づくりを開始した。
1591年の正月には、「南方三十三館」と呼ばれる常陸国南東部(行方、鹿島地方)の豪族を太田城に呼んだ。これらの豪族は大掾氏の流れをくむ一族で、独立性が強く佐竹氏の配下になることに抵抗する者もいた。佐竹氏は秀吉からの常陸国配領を大義名分にこれらの豪族を太田城の酒席で謀殺した。そのうち何人かは命からがら城を逃げだした。その中で鉾田の豪族烟田通幹親子は4㎞ほど北へ逃げ、常福地町三本杉まで逃げ延びたが、追手が迫り、親子3人とも自害して果てた。その後、この地には地元民によって地蔵堂が建てられ、杉の木が3本植えられたとされている。江戸時代まで地蔵堂があったが、現在では杉の木も地蔵堂も見当たらない。地名だけが残されている。
(現在の三本杉地区・秋)

02/01/2021

(小田原開城と秀吉の裁定)
天正18年(1590年)6月に小田原城は開城となって北条氏のすべての所領は没収となり、そのほとんどが家康の所領となった。これより以前、秀吉は1585年に九州地方に、1587年には関東や奥羽地方に向けて惣無事令を発令して戦国大名の私的な戦いを禁止していた。これに反したとして芦名領の伊達氏に対しは領地の没収が行われた。また、積極的に小田原攻めに参陣しなかった大名にも領地替えや没収を行った。この結果、白河氏の南郷や小田氏領地、行方など南部地方を含めて常陸国は佐竹領となった。結城氏は多賀谷重経を配下として領地が継続された。1590年12月には義宣は上洛し、従四位下・侍従の官位が与えられ、秀吉から羽柴の姓が与えられた。

29/12/2020

(義宣の小田原参陣)
豊臣秀吉から早期の小田原参陣を要請されていた義宣は、出陣に際し、家臣に主従関係の再確認をした起請文を提出させた。また、家法を改めて小田原参陣で功績のあった者に対しては、直参以外の陪臣、荒子百姓にいたるまでそれぞれの手柄に応じて所領や褒美を与えることとし、他の戦国大名と遜色ない統治体制をとった。
義宣の小田原参陣には黒羽の大関晴増、結城春朝など常陸・下野・下総の与力大名を連れて5月に小田原に参陣し秀吉に拝謁した。義宣は石田三成に属して武蔵国内の鉢形城や忍城を攻めた。

29/12/2020

(家督は義宣へ)
芦名領での勢力確保に失敗した義重は、以前から支援を求めていた豊臣秀吉に伊達政宗の芦名領乱入状況を報告し、調停を懇請していた。これに対し、秀吉は越後の上杉景勝に芦名家支援を要請した。これに応じた景勝は米沢領へ出兵したが、伊達氏の反撃が激しくあえなく撤退した。佐竹氏の動向に対抗するように伊達政宗は北条氏と同盟を結び、佐竹氏を挟み撃ちにして、けん制した。
このような状況下、1588年か翌年89年ごろ義重は家督を義宣に譲り、二人の体制で佐竹家の勢力維持を計った。この間にも伊達氏の南方への勢力拡大が進んでいた。須賀川の二階堂領を攻略し、浅川城へ進行した。佐竹氏勢力下にあった白河郡の滑津城も攻められた。これに対し、1590年佐竹義宣は南郷領守備のため白河に出陣し、浅川城で合戦となったが落とすことはできず、撤退している。
1590年になると西国平定を遂げた豊臣秀吉が東国へ軍隊を向け、北条氏討伐のため小田原攻めを開始した。

(伊達氏の南進・摺上原の戦い)白河領を支配下にした佐竹氏にとって、北の最前線では芦名氏や三春城の田村氏と直接対峙するようになった。この拠点の城となったのが赤館城(福島・棚倉町)と白河城であった。これらの城の守りには佐竹家重臣東義久が当たった...
15/12/2020

(伊達氏の南進・摺上原の戦い)
白河領を支配下にした佐竹氏にとって、北の最前線では芦名氏や三春城の田村氏と直接対峙するようになった。この拠点の城となったのが赤館城(福島・棚倉町)と白河城であった。これらの城の守りには佐竹家重臣東義久が当たった。義重にとって南からの北条氏の進行にも対応することも考慮して、北の芦名領や田村領への積極的な進行は控えていた。
1580年芦名家当主芦名盛氏が亡くなると、二階堂家から養子(盛隆)を迎え、伊達氏から養女を迎えて結婚させ後継とした。この盛隆が1583年、芦名家臣の大場三左衛門に暗殺される事件が起きた。これを機として米沢城主伊達政宗が芦名領への進行を始めた。
1585年政宗は畠山氏の二本松城を攻めた。これに対し芦名氏、岩城氏、佐竹氏が支援に出た。佐竹氏は赤館城から東義久を主将として出陣し、高倉(郡山市)や本宮で合戦となったが敗れ、退却した。この結果二本松城は落城し、伊達氏の配下となった。
1587年後継者の絶えた芦名家に遠縁の佐竹家から義重の次男が養子に入り、芦名盛重を名乗り後継となった。これに反発した家臣の中には伊達氏に帰依するものも出て、芦名家中では混乱が生じていた。
1588年芦名家家臣大内定綱の伊達氏への帰属を機に伊達氏と芦名家の戦闘が始まった。芦名家支援のため佐竹義重が出陣し、郡山・窪田や須賀川で戦いとなった。
1589年義重が三春城への進行を画策していた頃、政宗は磐梯山の麓の摺上原に集結して黒川城への攻撃を策していた。芦名盛重も大軍を率いて摺上原に向かい、伊達軍と合戦となった。芦名軍の配下に伊達氏に寝返りするものが出て盛重は敗退し、黒川城へ引き上げた。伊達軍は黒川城も包囲して盛重を攻めた。盛重は籠城後に城を脱出して佐竹領に逃げ、黒川城は落城し、伊達氏配下となった。

(佐竹氏の北進・白河氏との対立)佐竹義重は小田(つくば)、下妻、結城など常陸国南部で北条氏と勢力を争いながら、南奥州・白河領への進行を続けた。義昭の時代に南郷(福島・矢祭町)まで配下にしていたが、1567年に白河氏家中の分裂に乗じて、羽黒城...
14/12/2020

(佐竹氏の北進・白河氏との対立)
佐竹義重は小田(つくば)、下妻、結城など常陸国南部で北条氏と勢力を争いながら、南奥州・白河領への進行を続けた。義昭の時代に南郷(福島・矢祭町)まで配下にしていたが、1567年に白河氏家中の分裂に乗じて、羽黒城、寺山城、赤館城(福島・棚倉町)へと進行し、城を攻め取った。これに対し、危機を感じた白河義親は会津の蘆名氏や三春の田村氏に支援を求め、佐竹軍と対峙した。
1571年義親は佐竹氏の領有していた南郷へ進行し、同時に出陣した義重と戦いになった。これに呼応するように北条氏政が下妻城に攻撃を始めた。義重は寺山城以外の城を放棄し、下妻城へ向かわざるを得なかった。
1572年白河義親は再び南郷奪還を策し、佐竹氏の北の拠点となっていた寺山城を攻めた。危機を感じた義重は苦心の末、上杉謙信に斡旋を依頼し、義親と講和した。
そのころ佐竹領内では、度重なる戦闘に兵糧が枯渇し、太田・勝楽寺の寺料田まで兵糧田として没収していた。
1573年になると白河義親は那須資胤や結城春朝と同盟を結び、南郷へ再び進行した。羽黒城に駐留していた佐竹家臣の東義久を敗走させた。義重は赤館城に攻撃を加え白河軍の分断を図ったが、撃退された。その後にらみ合いが続いたが、結城春朝の斡旋で再度講和した。
1575年白河義親の居城である白河城内で内紛が起こり、東義久の調略もあって落城し、義親は捕らえられ、隠居の身となった。
(赤館城址・棚倉町)

10/12/2020

(武田氏との同盟)
1580年武田勝頼はかねて軍事同盟を結んでいた北条氏との関係が破綻するのと同時に、佐竹氏との同盟を模索していた。このため、上野国に進出していた北条氏に攻撃を始めた。また、東海に進出していた北条氏に対しても攻撃し、北条氏の軍勢の分断を図った。佐竹氏にも支援を要請し、下野国の進行を促した。佐竹氏もこれに呼応し下総、下野へ進行し、支配地域を確定していった。
1583年武田勝頼の死去や本能寺の変などの情勢の変化に対応し、北条氏は徳川氏と講和を結び、西の国境での守備軍を撤退して再び北関東へ投入してきた。
佐竹義重は豊臣秀吉と友好関係を結び、北条氏に対抗した。
1584年再び、北条軍によって佐野城や宇都宮城が攻撃され、佐竹氏は北条氏の退路となる結城、小山、壬生各氏を擁し、北条氏の側面を攻撃し、北条氏を撤退させた。
6月には再び北条氏直を擁した北条軍8万余が下野国長沼城攻略のため藤岡に集結した。佐竹軍は2万の軍勢で渡良瀬川を挟んだ対岸の大田和に布陣した。両軍とも南北関東の有力武士を擁した軍勢だったため簡単に決戦とはならず、沼尻を中心に持久戦が続いたが、決戦は避け、講和して両軍は退陣した。
北条軍と対等に対決したことで、佐竹氏の戦国大名としての名声を高めた戦いとなった。

10/12/2020

(北条氏との対立が続く)
1576年北条氏政は佐竹氏攻略のため、南郷(福島・矢祭町)で佐竹氏と対峙していた白河氏・蘆名氏に行動を起こさせ、佐竹氏の戦力を北に向けたところで、小山城や鹿沼城を包囲し攻めた。その後南下してかねてから戦略上の要城となっていた関宿城を攻めた。宇都宮広綱の救援に応えて義重が出陣し、壬生氏の居城を包囲し攻めた。その後、上杉氏の要請もあって関宿城救援のため南下し北条軍と対峙した。翌年になって講和し、両軍とも撤退した。その後関宿城主梁田春助は佐竹氏に寄食し、関宿城は開城となった。
1577年家督を相続した北条氏直が下妻城の多賀谷重経を攻めた。義重は直ちに応戦し、氏直は退却したが、翌年になると小田城、結城城と進行してきた。結城城には大軍勢で進行してきたため、城主の結城春朝は退き、開城せざるえなかった。この影響は鬼怒川以西の宇都宮氏家臣や中小の北条与党勢力を勢いづかせた。これに対し義重は小山城に出陣し、佐野や壬生で攻勢に出た。北条氏は氏政が再び出陣し、佐竹軍と対峙した。この時も講和し互いに陣を引くことになった。

08/12/2020

(北条氏との対立・下野多功原の合戦)
1567年北条氏政は佐竹与党・下妻城多賀谷政経討伐のため結城山川に進出した。翌年、氏政は下妻城を攻めたが、佐竹氏が筑波郡洞下で応戦する。
1569年佐竹氏にとって北条氏の北進や武田氏の上野侵攻によって、これまでの上杉謙信との友好関係だけでは有効な勢力拡大は望めない情勢になりつつあった。上杉謙信と北条氏康との間で「越相同盟」が成立すると、佐竹氏は孤立を深めるが、しだいに北関東での反北条勢力の中心は佐竹氏になっていた。
1570年になると小田氏治は逃亡していた土浦から小田城に近い藤沢城に進出していた。この年、上杉謙信の佐野城攻めに支援のため佐竹氏が参戦した。
1571年義重が白河・蘆名両氏と南郷(福島・矢祭町)で対戦中に北条氏政が結城・梁田両氏を先鋒として下妻城を攻略。これに対し義重は南郷(矢祭町)の陣を引き払い、宇都宮で戦闘準備をして、下妻城を北側から見渡せる鬼怒川の傍に布陣し、東側から別動隊を攻め込ませた。北条氏の補給路だった岩井にも侵入し、補給路を断つ作戦に出た。この結果、北条氏政は撤退を余儀なくされた。
1572年宇都宮家中において、長沼城主で重臣の皆川広照と壬生城の壬生綱雄の反乱が起こる。北条氏の内応によるもので、宇都宮氏は佐竹氏に支援を求めた。義重はこれに応え、那須資胤、小山高朝、結城春朝、田村清顕らの加勢を得て下野に出陣した。
これに対し、北条氏政も関宿城攻めを中断して下野に兵を向けた。両軍は下野国多功原で合戦となった。かなりの激戦となり双方に多数の犠牲者を出したが、佐竹氏は北条氏を破り、皆川領の多数の支城を攻略した。

住所

Mito-shi, Ibaraki
310-0011

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