一般社団法人苅田まちづくり観光協会

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【8月19日は、十九観音盆踊り&苅田えきらく大市】苅田町内では各お寺に8月の縁日があります。8月14日 浜町 浜の地蔵様8月16日 東傳寺 閻魔様8月17日 梅窓庵 十七観音様8月18日 浄厳寺 ※29日にイベントあり「ずーさんからの挑戦状...
16/08/2026

【8月19日は、十九観音盆踊り&苅田えきらく大市】

苅田町内では各お寺に8月の縁日があります。

8月14日 浜町 浜の地蔵様
8月16日 東傳寺 閻魔様
8月17日 梅窓庵 十七観音様
8月18日 浄厳寺 ※29日にイベントあり
「ずーさんからの挑戦状」
8月19日 善立寺 十九観音様
8月20日 東傳寺 お大師様
8月24日 中町 二十四日様
8月26日 西町 二十六夜様

8月19日(水曜日)は、苅田駅前 善立寺 十九観音ご開帳 提区盆踊り です。
善立寺の秘仏、十九観音様のご開帳と提区伝統の盆踊り大会が開催されます。

【ステージイベント】
ディアボロパフォーマンス
キッズジャズダンス
楽しいトークと歌謡ショー ベリマミ
キッズアイドルダンス
ブレイク&ヒップホップダンス
十九観音盆踊り

出店は

からあげまさ
炭焼ぢ鶏KOTAN
ひかり
パルプンテクレープ
うずたんキッチンカー
はちまるベース
ゼロファクトリーカフェ
Kキッチン

飲んで食べて踊って盛り上がりましょう!
また、苅田まちづくり観光協会では、令和8年熊本地震義援金箱を設置いたします。
皆様のあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。

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#十九観音盆踊り
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【苅田の地名のはじまりどころ】山口村山の入口、修験霊山の登り口の意味か?村内の八田山集落は、1624年(元和10)年、当時の惣庄屋・稲光五郎兵衛が牢人を入植させ開発させたことにより成立したといわれている。『京都郡誌』には1870年(明治3)...
15/08/2026

【苅田の地名のはじまりどころ】

山口村

山の入口、修験霊山の登り口の意味か?村内の八田山集落は、1624年(元和10)年、当時の惣庄屋・稲光五郎兵衛が牢人を入植させ開発させたことにより成立したといわれている。『京都郡誌』には1870年(明治3)年の村別人口資料に、
「八田山」が独立した村として扱われているが、その後の資料には登場していないので、独立性の高い集落であったと考えられる。また、等覚寺集落も山口村に属していたようである。

等覚寺の松会 国指定重要無形民俗文化財
カルスト台地平尾台に連なる山脈の中腹、標高約300mの地点にある白山多賀神社(等覚寺)で毎年4月第3日曜日に開催される、豊前修験道の春の予祝神事で、その起源は鎌倉〜室町時代にさかのぼる。英彦山豊前坊などでも同様の祭りがおこなわれていたが、その多くは明治の神仏分離などによって途絶えている。等覚寺では祭りの最も重要な幣切り行事を中心に田行事から刀行事まで一連の所作が昔ながらの形態を留めている。修験道華やかなりし頃を髣髴させる祭りである。また、等覚寺地区の北谷の棚田は1992年に農林水産省によって農村景観100選に選ばれた。

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【苅田の地名のはじまりどころ】法正寺村「法性寺」とも書く。地名は永禄年間、兵火によって焼失した谷村の古処山法性寺明護院に由来か?法正寺貴船神社前から白川平野を横断する一本の道の中ほどに「医学博士吉本清太郎」と大きく書かれた頌徳碑があります。...
14/08/2026

【苅田の地名のはじまりどころ】

法正寺村
「法性寺」とも書く。地名は永禄年間、兵火によって焼失した谷村の古処山法性寺明護院に由来か?

法正寺貴船神社前から白川平野を横断する一本の道の中ほどに「医学博士吉本清太郎」と大きく書かれた頌徳碑があります。昭和34年(1959年)法正寺地区の人々によって建立されました。吉本清太郎は明治6年(1873)法正寺生まれ。生家は貧しく授業料はおろか教科書代にも事欠くような日々の中豊津中学校を卒業、その後支援を得て山口高等学校に入学します。のちに認められ、維新の功労者で山口出身の政治家井上馨に紹介されたことが、その後の彼の人生を大きく変えることになりました。高校卒業後井上家の書生になった清太郎は東京帝国大学医学部に入学。医学の道に進み、明治35年(1902)日本赤十字病院に入社。昭和9年(1934)還暦を迎えるまで勤務しました。そして大正8年(1919)世界的に流行し、日本でも猛威をふるったスペイン風邪罹患者の診療、大正9年の関東大震災では罹災者病棟を新設、ほかにも看護師養成に力を注ぐなど日本医学会に大きな足跡を残しまし
た。また臨床医学、特に腎臓炎治療ではその第一人者として活躍します。その間、明治39年(1906年)清太郎が日赤病院からドイツ留学に派遣されたとき、同じく
陸軍武官として留学中だった久邇宮邦彦の病気を診察したことから、帰国後久邇宮家の主治医となります。当時平民出身の医師が皇族の主治医になることは破格の出世でした。また久邇宮家長女良子(ながこ)女王(のちの香淳皇太后・昭和天皇皇后)から、「ジイ、ジイ」と慕われ、良子女王が大正7年(1918)東宮妃に内定したときも主治医として御学問所に奉仕しました。良子女王からの信頼は厚く清太郎が65歳で亡くなる昭和12年(1937年)まで続きました。

清太郎は故郷を望む法正寺の小高い山裾の墓地に眠っています。

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【苅田の地名のはじまりどころ】黒添村 地名の由来として、クロは「むくろ」で、古墳が多いためにこの称が生まれたという説と、畔・畦の傍の土地という説が考えられる。「黒副」とも書く。黒添地区に残る民話「水玉地蔵」寒餅を搗いていた某家(ある家)の話...
13/08/2026

【苅田の地名のはじまりどころ】

黒添村 
地名の由来として、クロは「むくろ」で、古墳が多いためにこの称が生まれたという説と、畔・畦の傍の土地という説が考えられる。「黒副」とも書く。

黒添地区に残る民話「水玉地蔵」
寒餅を搗いていた某家(ある家)の話です。餅つきは、多くの人手が必要です。みんな忙しく働いていました。ところが誰も気づかない間に、窯の後ろの壁が赤く焼けていました。ところが不思議なことに、壁にはお地蔵さんの姿があり、てのひらから盛んに水が垂れて赤く焼けた壁を濡らしていました。家人はお地蔵さんのおかげで火事のおおごとにならなかったことを感謝するとともに、早速その姿を刻んで祀りました。「左手の手のひらに水玉を乗せ、腕には薪の一束をかけてござる」、村人は「水玉地蔵」と呼んで参詣を欠かさないという。その霊験で、この村には昔から火事が起きたことを聞かないという。昔は村人総出の盆供養があったと聞く・・・現在も丁寧におまつりしています。

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【苅田の地名のはじまりどころ】谷村『豊前志』に「当山麓谷村有座主屋敷之跡、号神護」とあり、字神護を等覚寺址としている。1828年(文政11年)、行事村飴屋(玉江家)が藩の許可を得て、村内に水車を設け、精米を始めたと言われている。文政初年より...
12/08/2026

【苅田の地名のはじまりどころ】

谷村

『豊前志』に「当山麓谷村有座主屋敷之跡、号神護」とあり、字神護を等覚寺址としている。1828年(文政11年)、行事村飴屋(玉江家)が藩の許可を得て、村内に水車を設け、精米を始めたと言われている。文政初年より企救郡農民との間で平尾台の草刈りを巡って騒動があり、1855年(安政2)年に解決したといわれている。

白川水力発電所

現在では、社会・個人生活全般にわたり、電気のない生活や活動はまったく考えられません。大正2年5月には電灯供給区域となった小波瀬村や苅田村には電灯(ふつう
10燭光)が行橋電灯株式会社より配電されましたが、1923年(大正12年)まで稲光、葛川、鋤崎、黒添、法正寺、谷、山口(等覚寺、八田山含む)からなる旧白川村には高級消費財である電灯(経費10燭光の明るさで1か月80銭)がなく、石油ランプ(経費1か月45銭程度)や行灯が使われていました。文明の恵沢を熱望する村民の理解を得て大正6年、産業組合長に推薦された柏村虎松氏(白川村第九期村長)が現在の谷地区に白川水力発電所事業を実現させました。苅田町誌によると大正12年2月24日に発電の許可が役所から出ています。しかし、これまでに至る道のりは険しいものでした。発電をなすべきか、電力を買う(これまで水路等の建設の費用が水の泡になる)べきか苦渋の決断を強いられ、勇気を奮い立たして白川村の自家用電灯のための発電の道を決断したのは組合長の柏村氏と思われます。聞き込み調査によると30燭光の電灯」(点灯個数487)であったそうですから、白川村の各戸には煌々と電灯が輝いたと思われます。大正時代には水力発電が火力発電を上回っており、この「水主火従」時代は戦後の昭和37年の逆転まで続くようです。苅田にも
昭和31年九州電力苅田発電所1号機(火力75000kW)が完成しています。一般家庭や工場等の電力利用量の増加を背景に、白川水力発電所は大正12年以来の輝かしい39年続いた歴史に終止符を打ち、昭和37年廃止されました。現在、この水力発電所に使用されていた鉄管などの形跡が、白川の山中に産業遺産として静かにたたずんでいます。
柏村虎松の碑は西部公民館にあります。

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【苅田の地名のはじまりどころ】お盆特別企画は、苅田町の地名の由来についてです。稲光村 中世の開発領主が将来を期待して命名した佳名地名か?細川時代の惣庄屋に稲光五郎兵衛がいる。稲光のお地蔵さん縁起このお地蔵菩薩は、その昔「青龍窟」に安置されて...
11/08/2026

【苅田の地名のはじまりどころ】

お盆特別企画は、苅田町の地名の由来についてです。

稲光村 中世の開発領主が将来を期待して命名した佳名地名か?細川時代の惣庄屋に稲光五郎兵衛がいる。

稲光のお地蔵さん縁起
このお地蔵菩薩は、その昔「青龍窟」に安置されていましたが、たまたま土蜘蛛征伐の時に土蜘蛛の一人が、霊験あらたかな地蔵尊を、ほかの適当な地に移したいと考え、夜中にひそかに背負い稲光の地「宮の坂」までやってきました。しかし突然歯が痛くなり痛みに堪えられなくなり、背負っていたお地蔵さんに「どうかお願いです、痛みを止めてください」とお願いしたところ、不思議なことにたちまち痛みが止まりました。そしてお地蔵さんは「私はこの地にとどまって、悩みがあるすべての人々を救いたい」とおっしゃいました。土蜘蛛は、この言葉を聞いて、ご尊像を背から降ろして奉りました。その時夜明けを告げる鶏鳴が聞こえました。そしてまもなくこの地の人が近づいてきましたので、土蜘蛛はこのままどこともなく立ち去りました。のちに地域の人々は寄り集まり、ご利益があるお地蔵様のためにお堂を建て安置しました。以来 毎年旧7月23日をご縁日として法要を営み、恩徳に感謝しています。 昭和59年4月吉日 「稲光地蔵尊 維持 講一同」(石碑の文より)

國崎八幡神社の鳥居の、道路をはさんだ向かいにあるお堂にあるお地蔵さんです。

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【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ】岡崎村地名は周辺一帯が海水に湾入していた頃の地形に由来か?平野の中に突き出た台地や丘(岡)の先端(崎)という地形に由来しています。旧小波瀬村を構成していた古い地名の一つです。森山良子の祖母・狭間...
10/08/2026

【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ】

岡崎村
地名は周辺一帯が海水に湾入していた頃の地形に由来か?平野の中に突き出た台地や丘(岡)の先端(崎)という地形に由来しています。旧小波瀬村を構成していた古い地名の一つです。

森山良子の祖母・狭間櫪(れき)の父・狭間畏三(はざま・いぞう)は地元の名士。森鴎外の作品にも畏三の名前が登場する。畏三は苅田町岡崎に住んでいた。高城山が高千穂と似ていることから九州北部に古代の王国があったという論文「神代帝都考」を発表するが異端の説とされた。出版から70年後に、松本清張が畏三の研究に興味を示し、「鴎外の婢(おうがいのひ)」という長編推理小説になっている。「鴎外の婢」は北九州市、苅田町、行橋市が作品の舞台となっているのでぜひご覧ください。
神代帝都考の原本は苅田町立図書館に寄贈されています。国立図書館のアーカイブで読むこともできます。

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【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ】盆休み特別企画は、ゴールデンウィークに引き続き苅田の地名の由来です。下片島村 「片島」の地名は潟の中の島の意味か?「堅嶋」とも書かれた。細川時代の惣庄屋に堅嶋四郎左衛門がいる。江戸後期に、片島村...
09/08/2026

【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ】
盆休み特別企画は、ゴールデンウィークに引き続き苅田の地名の由来です。

下片島村 「片島」の地名は潟の中の島の意味か?「堅嶋」とも書かれた。細川時代の惣庄屋に堅嶋四郎左衛門がいる。江戸後期に、片島村が東西に分立し、西側の集落
が「下片島村」となった。
(東側は上片島村)

片島地区にある菅原(すがわら)神社。祭神は菅原道真公。菅原道真が大宰府へ赴く途中、綱敷天満宮(築上郡築上町)に寄った後、当地にも立ち寄られたということから祀られています。本殿の装飾が見事です。
※片島は安楽寺(現在の太宰府天満宮)の荘園だったため、菅原神社を設置した可能性がある。菅原道真公が亡くなったのが903年で片島の菅原神社の祠を建てたのが天慶5年(943年)
天満宮・天神・菅原神社・菅原神社と菅原道真をまつる神社の数は全国で1万2千社あるといわれ、有名なのは北野天満宮(京都)、防府天満宮(山口)、太宰府天満宮(福岡)です。
明治35年(1902年『笠置の杜』記念碑建立(菅原道真の千年大祭)
古代の遺跡も多い片島地区です。

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【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ・二崎村】盆休み特別企画はゴールデンウィークに続いて、苅田の地名についてのお話です。二崎村地名は二先山が東麓の新開地を挟んで海に向かって北と南に二つに分かれて出ていることに由来か?「蓋崎」とも書く...
08/08/2026

【盆休み特別企画 苅田の地名のはじまりどころ・二崎村】
盆休み特別企画はゴールデンウィークに続いて、苅田の地名についてのお話です。

二崎村
地名は二先山が東麓の新開地を挟んで海に向かって北と南に二つに分かれて出ていることに由来か?「蓋崎」とも書く。1662年(寛文2年)、和泉国春木村の古野庄左衛門らが海浜の荒無地を開発し、生国にちなんで「泉新田」と呼ばれたと
いう。江戸時代は新津村に属し、幕末は「二崎分」として独立性の高い集落であったようだ。明治初期に独立して二崎村となる。元小倉藩家老島志津摩の晩年の隠棲地としても知られている。

苅田のむかしばなし 二崎の狸

むかしむかし、江戸大相撲で活躍した力士に、簑島(行橋市)出身の「簑島権太夫」という力士がいました。「簑島」は寛永19年(1642)3月、時の老中堀田加賀守の屋敷で開かれた相撲の大会で、酒井日向守のお抱え力士の「立石」に大勝して、「大関」に昇進しました。当時、江戸大相撲には「横綱」という称号はなく、大関が最高位でしたので、「簑島」は角界の頂点に立ち天下無双でした。このお話は、この「簑島」にまつわる伝説です。

朝早く島の浜辺に出て、相撲の稽古をしていた「簑島」は、島の若者を相手に、
「おーい来い」と大声を出します。すると対岸の二崎から、「おーい来い」と大声が返ってきました。その声を聴いた「簑島」は、二崎には、自分よりも力持ちの大男がいるに違いないと思うようになりました。
ある日のこと、「簑島」は、二崎の大きい声の男のことが気になって、その男と力試しをしようと思い、漁師に頼んで舟を出してもらい。二崎に出かけました。二崎の浜辺に立った「簑島」は、「おーい」と叫ぶと二崎の社の杜から「おーい」と、大声が返ってきました。しめしめと思った簑島は、「おーい、力くらべをやろうぜ」と叫ぶと、また同じ言葉が返ってきました。ますます勢い込んだ簑島は大声を出しながら、社の杜に近づきましたが、どこにも大男は見られず、大声だけが返ってきます。

不思議に思った簑島が、大声が聞こえる社殿の床下を見ると、一匹の子狸が床下で大声を出していました。勢い込んでいた簑島は、子狸を見るなり、すっかりしょげて、気を落として浜に戻りました。船で待っていた漁師は「大声の主はどうじゃった」と尋ねますと、簑島は顔を赤く染めて「二崎の狸じゃった」と答えました。

こんなことがあってから、島では体のわりに大声をだしたり、力もないのに大きなことを言う人を「ありゃ二崎の狸じゃ」と呼びました。

もうひとつ「簑島」に係る伝承に「樺太の力石」と呼ばれる力石があります。その石は簑島の子孫が住んでいた家の前に二つあり、簑島が軽々と持ち上げた、と伝えられています。その後簑島は、雲州(島根県)に隠棲し天寿をもって終わるとあり、郷里には帰らなかったようです。

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#二崎

住所

福岡県京都郡苅田町京町1-11/1
Kanda-Machi Miyako-gun, Fukuoka
800-0351

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
火曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00

電話番号

+81934345560

ウェブサイト

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