27/05/2026
榎峠調査報告に見る郷土史研究と文化財行政の課題(草稿)
――歴史交通史・考古学的検証の視点から――
はじめに
近年、小千谷市では「市民学芸員体験講座」を中心とした市民参加型の歴史調査が積極的に展開されている。その活動自体は、市民が地域史へ関心を持つ契機として一定の意義を有するものであり、地域文化の継承という点からも評価されうる。
しかし、その成果として公表される調査報告が、学術的検証の過程を十分に経ないまま、「地域の歴史的事実」として行政的に位置づけられていく場合、そこには重大な問題が生じる。
本稿では、小千谷市学芸員名義で公表された「市民学芸員体験講座 第35回【旧三国街道 榎峠 地形踏査】調査成果」[1]を素材として、歴史交通史・考古学・文化財行政の観点から、その構造的問題を検討する。
本稿の目的は、地域文化の保存そのものを否定することではない。むしろ、文化財行政において「保存」と「歴史的断定」を混同しないための制度的・学術的視点を提示することにある。
一 榎峠調査報告の特徴
当該報告書は、市民参加型講座の成果として公表されているが、その内容は単なる体験記録にとどまらない。
報告書は、「旧三国街道の道状遺構」「戊辰戦争時の銃弾」「世界遺産佐渡金山との関係」「文化財指定の必要性」までを一体的に論じている。さらに結論部では、「小千谷市指定文化財 史跡『旧三国街道 黒鉄坂跡』として保存する必要がある」と明示している [1]。
つまりこの文書は、形式上は「市民講座報告」でありながら、実質的には「文化財指定を視野に入れた価値形成文書」として機能している。問題は、その価値形成過程において、仮説、推定、検証不足、比較未了が十分整理されないまま、歴史叙述が急速に固定化されている点にある。
二 歴史交通史から見た道幅問題
報告書では、検出した地形について、「法肩幅約4m、法尻幅約3m」と記録し、これを旧三国街道遺構と推定している [1]。しかし、ここには歴史交通史上の重大な問題が存在する。
近世三国街道は、徒歩・荷駄輸送を主体とした山岳街道であり、その実際の通行面は極めて狭隘であった。関矢家文書などからも、橋梁幅員は一〜二メートル程度であり、近世山道としての限界が確認できる [4][5]。
さらに重要なのは、明治十一年以降に進められた「清水越新国道」事業である。この事業は、旧三国街道が近代交通に耐えられないほど狭隘かつ急峻であったため、新たな道路体系として整備されたものである。
そのため、榎峠において比較的安定した三〜四メートル級の道状地形が存在する場合、本来まず検討すべきなのは、明治期改修、馬車道化、林業道、戦後作業道、地震復旧など、近代以降の改変可能性である。
ところが本報告書では、こうした後世改変史がほとんど検討されていない。
これは、「近世街道遺構」という結論が、交通史的検証より先行していることを意味する。
加えて、天保9年(1838年)の「妙見峠普請費用の下付願」[6]には、榎峠・黒金坂周辺において「岩山切広ヶ候様」「掘子」など、道路掘削・拡幅工事を示す記述が確認できる。
これは、当該地域の街道が近世後期においても継続的改修対象であったことを示す一次史料である。したがって、現在残る広幅員の地形についても、近世初期以来の単一遺構としてではなく、複数時代の改修・崩落・再整備を経た複合地形として、より慎重に検討する必要がある。
三 考古学的検証の問題
(一)銃弾方向論の危うさ
報告書では、出土したエンフィールド銃弾について、「銃弾頭部が北〜北東を向く」ことから、西ノ平陣地側からの射撃と推定している [1]。しかし、報告書自身が、「中越地震により大きく崩落」した地形であることを認めている [1]。
この場合、地滑り、崩落、土砂移動、根系攪乱、凍結融解等による二次移動可能性を除外せずに、現在の向きから発射方向を推定することは、慎重な検討を要する。
本来必要なのは、層序分析、埋没角度測定、周辺土壌分析、崩落履歴検証であり、単純な方位観察のみで戦況を再現することは困難である。
(二)「岩盤を貫いた」という表現
報告書では、「ライフリング銃が300m離れた場所から岩盤を貫く破壊力」を有していたと述べている [1]。
しかし、対象となる白岩層は風化泥岩を含む軟質岩層であり、岩石硬度、風化状態、含水率、亀裂、埋没深度などの科学分析なしに、「岩盤を貫いた」と断定することはできない。
また比較対象として引用される、田原坂、寛永寺は、木材・石垣への着弾事例であり、地中埋没遺物とは条件が根本的に異なる。つまり比較論証としては成立していない。
四 歴史叙述と文化財化をめぐる問題
本稿は、榎峠周辺が近世三国街道・黒鉄坂に関連する歴史空間である可能性そのものを否定するものではない。
問題としているのは、「現在確認される道状地形や出土遺物が、直ちに近世街道遺構・戊辰戦争遺構として同定できるかという検証過程の問題である。」
今回の報告書で最も注目すべきなのは、個々の誤認可能性だけではない。問題の本質は、「仮説」が「行政的歴史」へ変換される過程そのものにある。
本報告書では、「道状地形」→「旧三国街道」→「黒鉄坂跡」→「文化財指定必要」へと、極めて短い距離で接続されている [1]。
しかも後半では、佐渡金山、上杉謙信、河井継之助、田中角栄までが、一つの「道の物語」として統合される。これは既に、「学術報告」というより、「「道をめぐる歴史物語」として構成されている。
五 文化財行政における問題
文化財行政において重要なのは、「保存価値」と「歴史的確定」を区別することである [2][3]。榎峠の地形や景観を保存する意義自体は否定されない。
しかし、近世三国街道遺構、戊辰戦争戦闘痕、黒鉄坂として断定するには、本来さらに厳密な検証が必要である。
にもかかわらず、今回の報告書では、「推定」「可能性」「関連」という学術上重要な留保表現が急速に後退し、「旧三国街道黒鉄坂跡」という確定名称が先行している [1]。
これは郷土史研究において極めて重要な問題である。なぜなら、一度、市指定史跡、解説板、学校教材、観光パンフレットへ組み込まれれば、仮説は事実として社会に定着するからである。
六 「共検的歴史」の必要性
現在求められているのは、行政や一部研究者のみが「地域の歴史」を独占的に語る構造ではない。必要なのは、市民自身が史料・調査・方法論を共有し、互いに検証し続ける歴史認識である。必要なのは、市民自身が史料・調査・方法論を共有し、継続的に検証していく歴史認識である。
郷土史は本来、検証、批判、比較、反証可能性によって支えられるべきものであり、「地域愛」や「物語性」によって学術的慎重性が失われてはならない。
結論
榎峠調査報告は、単なる一調査事例にとどまらない。そこには、市民参加型調査、行政文化、地域資源化、歴史物語形成、文化財化が一体化する、現代地方文化行政の構造そのものが現れている。
重要なのは、「保存」そのものを否定することではなく、「推定段階の内容が、公的説明として固定化されていく過程」を可視化し続けることである。
郷土史の未来に必要なのは、「発見の熱狂」ではなく、「検証を共有する文化」なのである。
参考文献
[1] 小千谷市学芸員. (2026). 「市民学芸員体験講座 第35回【旧三国街道 榎峠 地形踏査】調査成果」. 『ホントカ。』掲載資料.
https://hontoka.city.ojiya.niigata.jp/galleries/dVUG2uKNJduC26gmUHCB
[2] 文化庁. (2004). 『行政目的で行う埋蔵文化財の調査についての標準(報告)』.https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/hokoku_06.pdf bunka.go.jp
[3] 文化庁. (2026.5閲覧). 「埋蔵文化財」.
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html
[4] 新潟県. (1987). 『新潟県史 通史編3(近世1)』. 新潟県.
[5] 広神村史編さん委員会 編. (1980). 『広神村史 史料編』. 広神村.
[6] 長岡市 編. (1994). 『長岡市史 資料編3(近世2)』. 長岡市. (天保9年「妙見峠普請費用の下付願」所収)